二度目の京都旅行②

   今回の旅行ではたくさんの仏像を見ることになった。美しい仏像もあれば、迫力のある仏像や朗らかな仏像もあり、また大して興味をひかれない仏像もあった。が、どの仏像に対しても言えることは、それらに心を動かされるということはなかったことだった。単なる美術としてみた場合に僕の心を揺り動かすようなものはなかった。そして、そういう見方をすることは正しくないと思いつつ、信仰心を持たないものには仕方のないことだとも思った。

    信仰。僕は信仰を持つことができたらと思うことがよくある。僕は過ちを犯した人間だから。罪深い衆生の一人だから。神でも仏でもいい、信じることができたら。神を信じて、悔い改めることができたらと思うし、阿弥陀の救いに預かりたいとも思う。キリストの教えも法然や一遍の教えもいいものだと思う。でも僕は神や仏につまずく。それを信じられないくらいには僕もまた現代人だ。神や仏を前提としないならキリスト教や仏教(日本仏教)の教えは単なる道徳でしかないだろう。それでは罪深い人間は救われない。罪深い人たちは道徳に苦しめられる。彼らは人の世で許されない。だからこそ神や仏がいるのだ。神や仏によって許され、生き直すことで彼らは救われるのである。だが、多くの現代(日本)人にとってそれは難しいことだろう。今の世の中で神を信じたり、まして仏を信じるなんてことは。(仏に対して「まして」という言葉を付けたが、それは仏が今の日本人にとってほとんど過去の遺物であるからだ。仏像を見て感動したり癒されたりする人は多いだろうが、信心を持っている人は少ないだろう。それに対してキリスト教の神は馴染みがないだけまだしもその力を失っていないのではないだろうか)