六月二十三日

 過去を否定することは、とりも直さず自分を否定することである――高校生くらいの頃に買ったワイルドの『獄中記』の中にこんな一文があった。僕はそこに線を引いていた。すでにその頃から僕は過去を悔やんで生きていたのだった。その後、悔やまなくていいような人生を歩んだのかというと全くの逆だ。そんなことを考えると、ひところ流行していた「引き寄せの法則」なんてのもあながち間違いっていないかという気にもなる。つまり過去を悔やんでいる僕は、また新たに後悔することになる現在を生きていたというわけだ。

 神様(キリスト教の)を信じることはまだできないけれど、信じたい、なにより許されたいという気持は強い。許されなければ僕は一生自分を軽蔑して生きていくよりほかなさそうだから。そして、人間を根源的に許せるのは神以外にない気がするから。このあいだ一冊エッセイを読んで三浦綾子はちょっと苦手だと感じたけれど、あの本の中でひとつ、すべてを受け入れることができるのは神だけで人には期待しないほうがよい、というようなことが書かれていたのには納得できるように思う。ただ、難しいのはその神を信じるということだ。

 その点、仏教は神を設定しないわけだけど、こちらもなかなか難しい。許されたいという気持を満足させるには神は強力な誘惑だ。仏教においては、ただ過去のことは思いわずらうな、現在に集中せよ、である。過去はある意味で夢と同じ幻なのだ。それは理屈としては分かるけれど、感情はなかなか理屈で割り切れない。

 

 狭い道の左側は山肌だ。右側には道から少し下がって田んぼが広がっている。水を張った田んぼから水蒸気が上がるのか、周囲は靄がかかって幻想的だ。月は雲に隠れていたが、明るい晩だった。

 「あ、ほら、そこ」と母が指をさしながら言った。見ると、闇の中にほんの短いあいだ光が滑っては消え、滑っては消える。

 目的地の川の付近では蛍は一匹も見つからなかった。その代り、引き返す道で宙に軽やかに光線を滑らせる蛍を二匹見つけた。

(2013.06.23)