少し疲れているだけさ

    岸本タカシは逃げていた。甲高い靴音がもう一時間以上も彼を追いかけていた。彼は逃げきれないだろうと感じて、弱気になっていた。なぜなら、いくら振り返っても足音の主はおらず、逃げようにもどうすればいいのか分からなかったから。いや、疲れのせいだ、と彼は思った。

    長い一日だった。彼は家にいることができないという理由で、その日を外で過ごすことになっていた。彼が家にいることのできない理由についてはここでは省略する。なんの目的もなかった。ただ外にいなければならないという理由だけで彼は外にいた。

    始めはカラオケに行った。そこで三時間でも四時間でも時間を潰そうと考えた。しかし、カラオケ屋に行ってみると連休中の混雑で一時間しか部屋を借りることができなかった。彼は一時間下手くそな歌手を演じた。カラオケを終えるともうすることがなかった。

    タバコを吸う。暇を持て余した時に最も心落ち着く方法はタバコを吸うことだ。彼はコンビニ前の灰皿の側で道行く人々を眺めながらほんの数分の安堵を得る。人々は大抵何らかの目的を持ってそこにいる。彼はそんな人々を眺めながら、おのれの人生を振り返ろうとした。しかし、その前にタバコの火は尽きた。

    歩き、電車を乗り継ぎ、ショッピングモールへたどり着いた。ショッピングモール、この世の果て。彼はここで夏に向けての半袖のインナーを買い、夕方からの映画を見ることにした。インナーを買うためにモール内の全ての服屋を見て回った。買い物は慎重にするべきだ。シャツを購入し、本屋へ向かった。

    エトガル・ケレットは置いてなかった。アマゾンで頼もうと彼は心に誓った。その代わりに短編集を三冊買った。作家は全て違う。計六千円也。それ以上の価値を持つ可能性を秘めているとはいえ、高い。今日はまだこれから映画も見るのだ。食事もするのだ。暇をつぶすには金がかかる。

    フードコートは思ったほど混雑していなかった。映画の前に軽く腹ごしらえをしたかった。彼はマクドナルドでハンバーガーセットを買い、空いている席に腰かけた。周囲にいるのは大学生や高校生のグループや家族連ればかりだ。賑やかなことこの上ない。彼はここで映画までの二時間を過ごすことにした。しばらく歩きたくなかった。彼はポテトとハンバーガーを食べ終えると、コーヒーを飲みながら本を読み始めた。

    恋愛にならない男と女がずるずると関係を続けている。男は無自覚に女を利用し、女はそれでも執着する。主人公は執着する女だ。男には他に好きな女がいる。それでも女は諦められない。愛なのかどうかさえ分からない。映画はそれを肯定も否定もしない。彼はそんな関係が自分にもあったことを思い出しながら見ていた。彼もまたその関係を肯定も否定もしない。人は時々どうしようもなく愚かになる。まして恋となれば。

    店内のきれいな餃子の王将だった。これは王将というチェーン店では特筆すべきことである。王将の店内はだいたいが薄汚れている。安っぽくて油っこくて、それでいて妙に人を安心させる空間。しかし、ここは比較的新しい店舗のため、店内はまだきれいだった。彼は天津飯と餃子を食べた。久しぶりの王将で、代わり映えのしない味に満足した。ご飯が少しベチャっとしていることを除いては。

   タバコを吸う。コンビニ前の灰皿の側で道行く人々を眺めながら。昼間ほど人通りは多くない。飲み会終わりといった風情の人たちや仕事帰りの人たちが通り過ぎていく。

    駅構内の通路を歩いている時だった。彼は後ろに甲高い靴音を聞いた。振り返ると若い女だった。ヒールの音が通路に響く。彼は改札を通りホームに降りて電車を待った。その時、彼は何かがおかしいと感じた。ホームに降りたのにまだ靴音が聞こえている。彼は周囲を見回したが、歩いている人はいなかった。スマホをいじったり、ぼーっとしたり、同行人とおしゃべりしたりして皆自分の居場所に立ち止まっている。それなのに先ほどの足音がまだ耳に聞こえる。電車に乗ってからも、足音は続いた。俺は何に追いかけられているんだ、何から逃げなくちゃならないんだ、彼は思った。いや、考えすぎはよくない。ただの疲れのせいさ。