堕ちていくのは簡単だ。踏みとどまるのは難しい。踏みとどまったとて何があるわけでもない。

 俺はくしゃくしゃになった使用済みティッシュだ。ゴミ箱に入りそこねて部屋の隅で埃をかぶっている。

 仕事を始めてから、現実は恐ろしい速度で俺の精神と肉体へ侵食してきた。俺はコミュニケーション能力や論理的思考力を身につけようと取り組んでいる。

 一方で、俺はだんだん自分と世界との固有な関係を失っている。

 たとえば、こんな夜の空気を、匂いを、音を、静かにただ感じているだけ、という時間を俺はもう長いこと忘れていた。時間はもう昔のようには流れない。かつてよりずっとまともに生活している俺は、かつてのような内面世界の豊穣を失った。俺の内側は平面的で薄っぺらだ。世の中のことに詳しくなったところで、そんなものは内なる世界の豊かさとは何の関係もない。

 俺は何が欲しいんだろう。何を欲しているんだろう。遠い夜空の揺りかごで寝息を立てている亀は何を夢見ているのだろう。

 冷たい空気が肌を滑っていく。自動車の走行音。犬の鳴き声。十年前にもあっただろう場面。何が変わって、何が変わらないのか。一歩でも俺は歩いたのか。

 俺は再び閉じこもっている。不思議なことにドアの開け方を知らない。

 


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