祈りについて

夜眠る前にお祈りをする。もう何年もやっていなかったことだけど、最近また始めている。

そもそも眠る前のお祈りを始めたのはいつだっただろう。正確には思い出せないけど、中学生の頃にはもう習慣になっていたと思う。それはこんなものだった。「神さま、今日も一日家族をお守りくださりありがとうございました。明日も一日家族をお守りください。この地球が平和でありますように。この世界が平和でありますように。生きとし生けるものが幸せでありますように。」家族とも周囲の世界ともうまくいかず孤独感ばかりを深めていたその頃の自分が何かとんでもなく自暴自棄な方へ行ってしまわなかったのは、この祈りと多少の宗教心と臆病さのせいだったかもしれない(それがよかったのかどうかは分からないけど)。その後、20代のいつまでかはそうやって眠る前のお祈りをしていた。そのお祈りをいつやめたのかは定かではないけど、ここ数年はそんなお祈りとも無縁になっていた。

そのお祈りを近頃また始めたのは、たまたまある人人の教えを知ったからだった。彼は祈ることの大切さを説き、自分の作った祈りの言葉を唱えることを教えていた。僕はその教えをなるほどとは思ったのだけど、彼の祈りの言葉には自分の中にストンと落ちていかないものを感じた。その言葉を唱えた時にどうも実感が湧いてこなかったから。それで自分の心にすーっと入り込むような祈りはないかと、いくつか祈りの言葉を探してみた。南無阿弥陀仏アッシジのフランチェスコの祈りやその他の祈り。けれど、そのどれも自分の心にしっくりと染み込んでくるようなものはなかった。そんな時にふとかつて自分が祈っていた言葉を思い出したのだった。何年も唱え、馴染んでいるだけあって、今のところこれが一番自分には合っている。※1

祈りにおいて大切なのは何よりこの実感だと思う。それが既成のものであれ自己流のものであれ、それを唱えたときに自分の心に素直にその言葉が感じられること。その感じが無ければそれは内実を伴わないただの形式的なものでしかないだろう。だからこそ祈りというものは本来個人的なものなのだと思う。たとえそれが南無阿弥陀仏のように人口に膾炙したものであっても、それを唱える人と阿弥陀仏との間に個別な関係がなければ、それは祈りにはならないだろう。祈りが祈りになるとき、祈る人と祈りの対象との間には個別的で親密な関係が生まれているのだと思う。

 

※1  祈りの最初の二文は「神さま、今日も一日ありがとうございました」の一文に簡略化した。