祈りについて2

一つ前の記事でお祈りについて書いた。そのお祈りの中で、僕は神に呼びかけている。だけど、果たして自分が神を信じているのかと言えば、分からない。また、仮に信じているとしても、それがどんな神なのか、どんな存在なのかは分からない。今度、改めてお祈りをするようになって引っかかっているのはその点だ。前の記事では一番しっくりきている祈りの言葉だなんて書いたけど、それはあくまで他の祈りの言葉に比べてであり、実のところ僕はまだ自分が納得するものには出会えていない。

お祈りを始めた中学生(もしくは小学生)の頃には、そのことはあまり意識されていなかった。ごく自然に神さまという存在をあるものとしていた。それはたぶん大方の日本人とそんなに変わらない意識なんじゃないだろうか。何とは言えないけど、自分たちを超えたところにあるような存在。そんな曖昧なものを神さまと呼んでいたのだろう。それはある部分では古代の人たちが抱いたとされているような自然への畏敬の念と大きく変わるものではないのだと思う。現在に生きる僕にしたって人間の作った物よりも自然の造形物や表情の方により惹かれる性質を持っている。人間という生き物もその中に含んでいる自然という自分を超えたものに対する思いをなんとなく神さまという言葉に擬人化していたんじゃないだろうか。その神さまというのは地球という星をも超えて遥か宇宙にまで至る大きな存在である。

けれど、今の僕は神という言葉をかつてのように素直に唱えることはできない。キリスト教であったり、神道であったり、また無神論であったりといった知識を持った頭では、神という言葉はかつてのように無批判に使うことができない。

ここで神というものについて真剣に考えることも大切なのかもしれないけど、今の僕にはそれよりも自分がその祈りを通して何を実現したいのかということの方がより重要だ。そして、それは正しい生き方であり、安心なんだと思う。正しく生きることによって自分を良くし、世の中に貢献していくこと、それによっていつも安心の内に生きること、それが自分の望んでいることなんだと思う。けれどもここでまた疑問が出てくる。なぜ、正しく生きなければならないと思うのか? なぜ世の中に貢献していかなければならないと思うのか? あるいは、その正しい生き方とは何なのか? たとえば仏教でいう具足戒を守っていればそれは正しい生き方だろうか? どうしてそれが正しいと言えるのだろう? 考え始めるとこんなふうに頭の中は?でいっぱいになってしまう。