心の向かうところ

男は神も仏も信じられなかった。それは結局体験するものであり、いくら知識を詰め込んだところで理解できるものでも信じられるものでもなかった。もし知識だけで信じるならば、それは盲信というものだろう。男は神や仏を有難いものだとは思ったが、それに向かって祈ることはできなかった。

男は祈りを求めていた。自分という人間の心のなさに失望していたから。しかし神や仏なしにどうすればいいのか分からなかった。男が辿り着いたのは、自分のことを忘れ、ひたすら他人や外の世界への思いやりで心を満たすことだった。自らの全ての言動が世界への限りない思いやりから表れるようになるよう祈ること。男にはそれが今自分にできる精一杯の祈りだと思われた。

 

そもそも神や仏とは何だろうと男は考えた。それははたらきそのものであり、姿かたちのないものだろう。いわゆる神の絵姿や仏像というのは多くの人に神や仏というものを分かりやすく示したり、それらに思いを向けやすくするための方便であり、信仰の形態としては堕落した姿だと言っていい。そもそも神や仏という呼称さえ本来は必要のないものなのである。

 

もし人が幸せに生きようとするならば、心配や不安、不平や不満を一切なくし、起こってくる出来事全てをただありのままに受け取っていけばいい。