三月十二日

 自分を否定するというのは以前考えていたよりもずるい行為なのかもしれない。そこには自分を見ているようで、実は自分から目を逸らす心理が働いているような気がした。

 

 畳の部屋に母方の祖父母の遺影が飾ってある。のを見ながら、死ぬこと生きることの不思議さを思う。きっと母とその姉妹の子どもたち、つまり僕の世代がいなくなれば、もう誰も祖父母のことを覚えている人はいなくなるだろう。そんなふうに、かつて生きていたことさえ忘れ去られるということ。僕の今日の苦しみも喜びも苛立ちも焦りも、なかったことのように存在している未来。自分が生きた痕跡が何もない未来の世界を考えると、悲しいのか喜ばしいのか、恐ろしいのかほっとするのか。さえ分からないなんとも不思議な気分に包まれている。

 

 母を用事を済ませているあいだ、僕は五階の画廊に行くと、画廊の手前のスペースでクラフト展をやっていたので、それはキリギリスやトンボや甲虫やの虫たちをとても上手に作ったり時には擬人化したりした作品で、外側に飾られていた作品を眺めていると中から女性が来て「中にもたくさんありますので見ていってください」と言ったので、中の作品も見ていると、女の人の写真の柄のバッジみたいな丸いものに足をつけて虫にしたものや、雪の斜面を茶色のキリギリスがスキーを履いて滑っているのや、立体になった作品が楽しかった。

 画廊では、日本画家の作品が展示してあって、赤い牡丹みたいな花を描いたのや金の背景に白と青で富士山を描いた少しイラストっぽいものや青い背景に鯉が落ちていくみたいに縦に描かれた作品などが面白かったけど、全体的には自分の好みではなかった。

 そのあと本屋に行って、老子荘子や大津絵や寅さんの本などを拾い読みしたけど、なかでもジェシー・マリオン・キングと山下清の画集が素晴らしかった。キングの本はいつか手元に置きたい。あと松本竣介の画集は、絵に添えて載っていた彼の言葉が心をとらえた。

 

 公園。ベンチに座っている僕をにらむように見る猫。

――そこはおまえの場所じゃない。おれの場所だ。

(2013.03.12)