『悪い恋人』井上荒野

 最初、読み始めたとき、文章が古いな、と感じた。なんとなく昭和の作家の文章を読んでいるような。だから、そこにシステムキッチンとか携帯電話という言葉が出てくると、なんだか違和感があった。それも、しばらくすると慣れてしまったが。

 物語は、主人公である沙知の視点から物語られる。夫、息子、義父母と暮らしている主婦の沙知の生活は平板である。平板、つまりほとんど起伏のない状態。沙知という人間もまたその生活と同じくらい平板で、語りの調子も平板。平板でけだるく、どこか荒んでいる。幸せとも不幸せともいえない生活。そんな生活をしている沙知の前にひょんなことから中学時代の同級生があらわれ、彼らは肉体関係を結び始める。

 沙知は不倫関係を続けていることにほとんど罪悪感を抱いていないが、それは非常にリアルだと思った。もちろんいろんな関係があるだろうが、沙知にとってそれは突然来た嵐のようなものでしかない。物語の始めから、沙知にとって家族を含めた周囲の出来事は他人事のようだが、不倫関係によってそのことはよりいっそう際立つ。不倫によって家族以外の人間との関係から家族を見ることにより、沙知にとっての家族の他者性は増していく。が、沙知にとっては周囲の出来事だけでなく自分自身もまた他人事である。不倫関係はそうした沙知の生の中で一瞬なりとも彼女に自分の人生を他人事でなく感じさせる時間だったのだろうか。不倫関係にしても沙知にとってはやはり他人事だっただろう。その不倫関係もやがて終わり、彼女にとってもその出来事はやがて他人事のように去っていく。まるで何もなかったように平板な生活は平板なまま続いていく。

 この小説の主人公の沙知のような感情というのは、わかる人とわからない人とではっきり分かれるだろう。日常というものを当たり前に受け入れて生きている人と、日常に亀裂や不気味さや自分との乖離を感じて生きている人と。この小説は不倫を描いているというより、沙知という女性を通して日常というものの不気味さを描いているように感じた。