日々の渇き

 特殊なレンズを通して見たみたいに、世界はひとりの人間のなかで幾層にも重なりあっている。そして俺たちは、自らの置かれた環境や深層意識によってそのうちのどれか一つを選びとり、世界を眺める。けれども、その世界は決定的なものではなく、何かの弾みによって今見ている世界は破れ、別の世界が顔を現す。

 

 日々の繰り返しが俺を枯渇させる。それは生まれてから死ぬまで俺を蝕み続ける。

 

 欲望は環境に左右される。今、俺が欲望しているものといえば、好きなことをして過ごす時間の余裕と、気に入った服を買うことのできるくらいの金だ。くだらない。くだらないが、それが俺だ。

 

 かつては違っていた。俺はもっと精神的な何かを欲望していた。それは、俺が他人とまともにコミュニケーションのできない社会不適合者で、完全に親の庇護のもとほとんどひきこもって日々を過ごしていたからだ。そういう日々の中では、俺はほとんど精神的なものだけで生きていた(実際にはそんなことはなかったのだが、肉体が生きるだけの糧は親に頼り切っていたため、自分の意識に上ることはなかった)。俺の武器は精神だけだった。そのような状況下では精神は鋭く研ぎ澄まされていく。

 

 が、今の俺は外に出て自分で稼いでいる。そして他人から見た、目に見える自分を意識し始めた。物質としての自分を。俺の欲望は目に見えないものから目に見えるものへと変化した。

 

 さて物質的な欲望がある程度かなえられると、人は再び精神的なものを求め始めるようだ。しかし、そのとき人が求める精神的なものとは所詮ただのスタイルにすぎない。それを得たところで狼の物真似をした豚にすぎない。ならば豚としてまともに生きるまでだ。

 

 俺は今、金を稼ごうとしている。金を稼ぐにはいわゆる成功者とやらの思考を身につけるのが手っ取り早い。成功者たちの思考。一般的には自己啓発と呼ばれる分野である。端的に言ってそれらの考えは薄っぺらくて馬鹿馬鹿しい。彼らがいかに自分を大きく見せようとしたところでそんなものはたかが知れている。自己啓発。それは、世間的な成功によって自我の肥大した野郎どもの自己陶酔にすぎない。だが、手っ取り早く金を稼ぐためには彼らを参考にするのが近道だ。肝心なのは、そうやって手に入れた成功などつまらないものだということを覚えておくことである。人はただ絶望によってのみ物事を正しく見ることができる。